平成22年の採点実感で、最近の判例の傾向として客観的帰属論と言及されていて、また新しい説でも登場したのかと基本書などを確認していたらそんなの昔からあった事に笑うしかない(笑)
因果関係論の本質
そもそも因果関係がないと犯罪は成立しないといいながら因果関係の定義自体が曖昧である。
多分なんとなく感覚的に因果関係がないと罪にとえないでしょ、ぐらいの感じで理論が構築されていったから色々と不都合が生じて場当たり的に理論が積み上げられていって、もう元には戻れない。
結局、理屈は後付けされて、このケースは被疑者に責任を負わせた方がいいから因果関係ありにしよう、くらいで裁判所は決めていて、理屈は任せた戦法に違いない。
因果関係とは何か
まずあれなければこれなしの条件関係がなければならない。これだけで因果関係を認める説もあるようだ。怖い話である。
そうすると、無限に因果関係が有るものが広がっていくじゃないかと、素朴な疑問が誰しも湧く。
そこで相当因果関係説などがでてくる。
つまりこの議論、因果関係が有るから罪を認めるものではなく、そもそも、罪に問うために因果関係が有るというにはどういう要件が必要なのかと言っているのだ。
ある行為とそこから生じたとされる結果の間に因果関係が有るか?という意味は結局その結果を行為者に負わせていいかという問題であり、これを因果関係と言っているにすぎない。
科学的に判断しようとすると議論がまったくかみ合わない事になる。そもそも科学的にも因果関係なんか明確に判断することなんか困難な事もある。
例えばワクチンを打って数日後に死亡した場合、基礎疾患があった場合などは特にワクチンの副作用で死亡したかどうか分からないとされる場合がほとんどだろう。因果関係がない、のではなく、因果関係が分からない。刑法的には因果関係が有るのか無いのかわからなければ無罪とするしかない(多分)。それでは不都合な場合もあるはずだ。
刑法的には行為者に帰責できるのかどうかなので、逆に簡単かもしれないが。
相当因果関係説
相当因果関係説は条件関係に絞りをかけると言われる。
そして、客観的帰属論はこの因果関係論とは基本的に違う考え方のようである。
相当因果関係説 一般人の社会生活上の経験に照らして通常その行為からその結果が発生することが相当と認められる場合に刑法上の因果関係を認める。
行為時を基準に、一般人の視点から相当性が認められる場合に因果関係ありとする。
相当因果関係説は行為時が基準となる
行為時に一般人を基準に判断するのは共通するが、何を基礎事情とするか(判断する材料)によって説がわかれている。
客観説 全事情(行為時)と予見可能な行為後の事情
主観説 行為時に行為者が認識した事情又は認識し得た事情
折衷説 行為時に一般人が知り得た事情及び行為者が特に知っていた事情 条解刑法P78
しかし、最近は相当因果関係説であっても事後的に「当該結果を実行行為に帰責することが相当であるか否か」を問題にするものが増えているようだ。条解刑法 P79
客観的帰属論についてはあまり解説されていないものもあるし、こうなってくると何説をとるかが重要ではなくてこれこれこういう理屈を問題の具体的事例に当てはめて検討したら因果関係ありなどと書けていれば問題ないと思われる。そもそも学説が錯綜してかつその説の内容まで変化しているし、判例の態度だって明確ではないのだからどの説が正解なんてありえないし、説自体が数学の公式みたいに固定されているわけでもないのだから。
客観的帰属論については深追いするのはやめておこう。
因果関係の錯誤論も色々とカテゴライズされているが、短答のパズル問題でなければ、相当因果関係をベースにして、一つがっつり理解しておけばいいのではなかろうか。と、短答落ちが申しております。
過失犯の因果関係について
平成22年の論文の出題趣旨には過失犯の因果関係についての言及がある。
一般的には行為後の特殊事情として過失行為が介在した場合に因果関係はあるのかという観点だが、基本の行為が過失の場合に因果関係論的にはどのような判断をするのだろうか。この点について手持ちの基本書などには言及がない。
行為者の認識した事情とは具体的になんのことだろうか
相当因果関係の主観説をとると、行為者の認識した事情又は認識し得た事情が基礎事情となり、それが一般人に相当性ありと認めらるようなものであれば因果関係ありとなる。
ここで、行為者の認識した事情とか一口に言うが一体それはなんだ?(笑)
なぜ改めて過失犯でそれを問題にしているかと言うと、過失犯において注意義務の内容として予見可能性などを含むため、因果関係があるとする場合に行為者が認識しているとする事情が重なっているなら(注意義務の認識内容と因果関係に言う基礎事情)、それはそもそも故意犯ではないかという素朴な(いや、単に過失犯の注意義務とか因果関係をよく理解してないだけでしょ)疑問が湧いたので確認してみたいという事である。
因果関係に言う行為者の認識事情とは、端的に言えば行為時にどのような行為(見たり聞いたり感じている事など)を行っているかということだろうか、それを一般人からみたら「そう言う事やったらこういう結果は普通発生してもおかしかないべ」という場合に相当性ありということだろう。行為者の認識事情をこういうことをしたらそういう結果を招く、という事情だとしてしまうとそれは単に故意犯の主観的要件になってしまう。
そして、これを過失犯に当てめてみると、H22の問題のような薬の誤投与の事例であれば、当該薬を投与するという行為者の認識、又は認識し得た事情が基礎事情となる。認識し得た事情という日本語も解釈次第で結果の発生可能性的になってしまう恐れがあるが、この場合は行為時の情況から考えると行為者は普通にこれこれこういう事は分かりそうなもんだよね、という事だろう(例えば書いてあるものを見ているのに気づいていない場合は気づくのが普通でしょみたいな)。
で、なければ気づいていない事が基礎事情となり、H22年のような事案の場合は薬のラベルが違っていない(本来投与すべき薬である)という事を前提にして一般人が因果関係を判断してしまうことになり、だとすると結果は発生しないことになりかねない。
だからこそ、認識し得た事情という変な日本語が使われているのだ。
そうすると、ご丁寧に薬のラベルが違っている事が問題文に示されているから、主観説にたっても(違う薬だと認識可能だから)この場合過失の因果関係はありとなる(致死の結果は別としても過失はある)因果関係はありとなる。この点、過失における注意義務とは別個の話なのだが、なんだか似たようなことをやっていることに気づく。だから混乱していたのだ。
こうやって見ていくと出題の趣旨で、客観的帰属論の言及があるのも分からないではない。さすが試験委員会である(たまにはゴマをすっておこう)。とは言え、客観的帰属論で答案を書けるほどの知識はないし、勉強しても余計混乱しそうなのでやめておこう(笑)
第三者の故意行為の介在
この点判例は因果関係を否定している。因果関係を否定した唯一の判例だと言う。刑法総論講義案改訂版P95
ここで、またふと思う。因果関係論において特殊事情の介在として様々なケースがあげられているが、ほぼほぼ因果関係が肯定されていることになる。
従って判例は条件説ないしは相当因果関係説における客観説ではないかと言われていたわけである。
しかし、第三者の故意行為において因果関係を否定しているということは少なくともその事案では条件説でもなければ客観説でもなかったわけである。
そもそも論として相当因果関係説では、一般人の視点で相当性を吟味する。
各説における基礎事情に違いはあるものの、客観説を除けば行為後に特殊事情が介在する場合は結論においてその違いに大差ない。
例えば上記薬の誤投与の場合で言えば、第三者の故意であれ過失であれ、そんなものが行為者の認識事情、あるいは認識し得た事情で必ず判別できるものでもない。
そうすると基礎事情を基準にして考えた時、行為後の特殊事象はかなりの部分因果関係がなくなってしまう。
そうすると確かに不都合が生じてしまう。この時相当因果関係説では主観説であっても一般人の視点からは相当性がありとすることによって因果関係を肯定する場合が多いだろう。しかし、それは行為時の認識した事情を基礎として判断しているのではない。もはやそれはどうでも良くなってしまっている。
そういう意味で相当因果関係説でも最近は事後的に「当該結果を実行行為に帰責することが相当であるか否か」を問題にするものが増えているというのも頷ける話である。
そうなってくると、それはもはや因果関係ではなく、責任論の話になってきそうだが、要するにそれくらい因果関係論はきちんとした理論ではないと言う事だろう。だからこそ、試験問題となっているのかもしれないし、まただからこそ難しい(あやふや曖昧な理論を基礎にして処理しなければいけないから整合性がとれない場合がある)とも言える。
短答過去問
新司H18 〔第18問〕(配点:3)
因果関係に関する次の【見解】AないしCを採って後記の【事例】Ⅰ及びⅡを検討し,後記のア
からエまでの各記述につき それぞれ正しい場合には1を 誤っている場合には2を選びなさい 解 ,, 。(
答欄は,アからエの順に から ) [№23] [№26]
【見 解】
因果関係を肯定するためには,
A. その行為がなかったならばその結果が発生しなかったであろうという条件関係が必要であ
り,それで足りる。
B. Aにいう条件関係の存在を前提に,行為当時一般人に認識・予見可能だった事情及び行為者
が特に認識・予見していた事情を基礎として,その行為からその結果が生ずることが相当であ
ると認められることが必要である。
C. Aにいう条件関係の存在を前提に,行為当時存在したすべての事情及び一般人に予見可能だ
った行為後の事情を基礎として,その行為からその結果が生ずることが相当であると認められ
ることが必要である。
【事 例】
Ⅰ. 甲がVを後ろから突き飛ばしたところ,Vは転倒して頭部打撲の傷害を負った。Vは心臓に
異常があり,心筋こうそくが起こりやすい状態だったため,転倒により心筋こうそくが起こっ
て死亡した。
Ⅱ. 甲がVの頭部を鉄パイプで殴打したところ,Vは脳挫傷の傷害を負い意識不明の重体になっ
たが,甲はVを路上に放置したまま立ち去った。その直後,その場所を通り掛かった乙運転の
自動車がVをひいたため,Vは内蔵破裂により即死した。なお,Vは,乙運転の自動車にひか
れなくても,翌日には脳挫傷により死亡していたと認められた。
【記 述】
ア. Ⅰの事例で,行為当時,一般人はVに心臓の異常があるという事情を認識・予見することが
できなかったが,甲はその事情を認識・予見していた場合,A及びBの見解からは,甲の行為
とVの死亡との間の因果関係が肯定されるが,Cの見解からは 因果関係が否定される , 。[№
23]
イ. Ⅰの事例で,行為当時,一般人はVに心臓の異常があるという事情を認識・予見することが
できなかったし,甲も認識・予見していなかったが,甲はその事情を認識・予見することがで
きた場合,AないしCのいずれの見解からも,甲の行為とVの死亡との間の因果関係が肯定さ
れる。[№24]
ウ. Ⅱの事例で,行為当時,一般人はVが放置された路上が自動車の通行のある場所であるとい
う事情を認識・予見することができたが,甲はその事情を認識・予見することができなかった
場合 AないしCのいずれの見解からも 甲の行為とVの死亡との間の因果関係が肯定される ,, 。
[№25]
エ. Ⅱの事例で,乙の行為に過失があった場合,Aの見解からは,乙の行為とVの死亡との間の
因果関係が肯定されるが,B及びCの見解からは,因果関係が否定される。[№26]
ア×イ×ウ〇エ×
H19 〔第4問〕(配点:2)
刑法上の過失に関する次の1から5までの各記述のうち,正しいものはどれか (解答欄は 。 ,[№
4])
1. 行為者が構成要件的結果発生の認容を欠く場合を認識のない過失といい,その認容がある場
合を認識のある過失という。
2. 業務上過失傷害罪について通常の過失傷害罪より重い法定刑が定められているのは,業務上
の過失が通常の過失より重大な結果を引き起こすことが多いためであるから,生じた結果が軽
微な場合は業務上過失傷害罪は成立せず,過失傷害罪が成立し得るにとどまる
3. 重過失とは,注意義務違反の程度が著しい場合をいい,行為者としてわずかな注意を用いる
ことによって結果を予見でき,かつ,結果の発生を回避することができる場合の過失をいう。
4. 被害者が不適切な行動に出ないことを信頼するに足る事情があり,その被害者の不適切な行
動によって結果が発生した場合は,過失相殺が適用されるから,行為者の注意義務違反の程度
が著しい場合であっても重過失が認められることはない。
5. 構成要件的結果を惹起させた直接行為者について,これを監督すべき立場にある監督者の過
失を,監督過失という。監督過失を認めるには,直接行為者に構成要件的結果発生の予見可能
性があれば足り,監督者にはその予見可能性は必要とされていない。
正解 3
肢の1、認識のある過失、認識のない過失、? 犯罪事実の認識はあるけど認容はないとか、未必の故意とかそういうやつなのかな?
認識のある過失、認識のない過失とは
A 犯罪事実の認識がない → 認識なき過失
B 犯罪事実の認識はあるがその認容がない → 認識ある過失 と、一般的に言っているようである。刑法総論講義案P104
認識の対象は犯罪事実ということになるが、犯罪事実というのは目の前に起こっている事象であり、その認識がないという状態はもはや過失にさえ問えないのではないかという素朴な疑問が湧くが、それ以上深い考察はない。
http://www7b.biglobe.ne.jp/~tanihokenmura/2-47.htm
通常私たちが考えている「過失」というものは、「認識なき過失」であるといっていいでしょう。 文字どうり、「権利侵害」の結果をまったく認識していなかった場合、つまり、事故が発生するかもしれないということをまったく認識していなかった場合の「過失」をいうわけです。
この場合の過失責任割合を記載した本が、業界のマニュアル本である「判例タイムズ」であるわけですね。実務上、現実に発生した事故は、この「認識なき過失」事故を基本として扱い、その責任割合を認定しての処理がなされています。
ところが、現実に発生した事故を詳細に分析すると、「認識ある過失」によって引き起こされたと思われる事故が相当数あるということです。
つまり、ここで言われている犯罪事実とは今目のまえで起きている事象ではなく、その結果の事を言っているわけですね。
ということは、所謂、結果の予見というやつになりそうです。
http://c-faculty.chuo-u.ac.jp/~mtadaki/seminar/resume/2008/11k.pdf
旧過失論では結果を予見すべきであったのに予見しなかった結果予見義務違反に過失犯の本質があると言われていますから、この説からは過失犯とは本来認識なき過失であると言えそうです。
言い換えれば認識のある過失とはあり得ない、あったとしても他の論理構成が必要になりそうですが。
認識のある過失が実は多いという指摘からも分かりますが、実際車を運転していて、漠然とでももしかしたら事故が起きるかもしれない、などと思う事だってあると思います。
そこで、事故を起こさないように注意して安全運転をしようと気をつけるわけですが、この場合、仮に事故を起こした場合認識のない過失に分類されるでしょうか。
しかし、逆にこのスピードだとちょっとでも気を抜くと事故を起こすかもしれないが、まあ、大丈夫さという認識で事故を起こした場合は認識のある過失になります。単純に旧過失論を当てはめると過失とは言えなさそうですが、未必の故意もなく、現行法上不可罰になりそうですね。。。
そもそもですが、結果を予見したとすると、その行為は行わない人が多いはずですし、仮に結果を予見できたとしてあえて行為に出る場合は最終的に結果を認容しているかいないかという未必の故意の話になるわけで、結果を予見したけど結果が起こってしまった場合も過失として処罰されるならそれって結局結果予見義務違反ではないということになりはしませんかね。
この問題は多分に理念的なものである、と言い切ってしまえないほど結構致命的な問題があると思いますが。
過失犯として処罰する規定に何をもってして処罰するのか構成要件に多少なりとも規定があればそれに当てはめれば特に問題とはならないと思いますが、そうでない場合は過失と一口に言ってしまえないわけで問題となりそうです。
しかし、あまり問題となっていなさそう。
という事で深入りは禁物ですね。
実務判例は新過失論に近いそうです。 結果回避義務違反
※私見
犯罪結果を行為者に帰責するためにはその行為と結果との間に因果関係が必要であるとされている。
ここで条件関係は因果関係を説明する理論の一つであって、別の概念ではないことを踏まえておく。
人を殴った結果死亡した場合殺人罪に問えるか
例えばビンタをしたら、急性心不全で死んだ
この場合相当因果関係説からは例え殺害の故意があっても殺人罪は否定される可能性がある。要するに相当因果関係説などの説はその行為から通常は結果が発生しない事例を除外するためのものとも言える。
しかし、別に因果関係で否定しなくても、社会通念上ビンタで人を死ぬことはないと言えるから、ビンタという行為自体が人を殺害する行為ではない、として殺人罪の構成要件に該当しないとすることもできる。
相当因果関係説からは殺害の故意をもってビンタで人を死なせた事案では殺人は無罪になるが、傷害致死に問えるのか?そもそも因果関係自体がないのだから傷害致死には問えないのが理屈となる。せいぜい傷害?であろうか。
行為自体が殺人罪の構成要件にあたらないとすると、傷害致死とすることも可能である。
では行為後の第三者の行為が介在した場合はどうか?
殺害の故意をもって包丁で人の胸を刺した結果人が死亡すれば殺人罪で間違いないだろう。仮に人が死ななかった場合は殺人未遂である。この時、出血多量で死にそうだったのに天才的な医師の治療によって奇跡的に救命されても殺人未遂である。
さて、この事象も第三者の行為が介在してたまたま命が救われたが、これで因果関係がなくなって殺人罪の構成要件から外れてしまうのだろうか?
救命措置をほどこさなければ通常は死んでしまうようなケガを負ってしまったが、その直後に第三者がピストルで頭部を撃って即死してしまった場合はどうか?
この場合は因果関係の断絶理論などで因果関係を否定したり、あるいは肯定する説もあるようだが、そもそもこの事象も因果関係の問題だろうか?
第一行為で直接的に死亡の結果は起きていないのだから端的に殺人未遂であろう。本来死ぬようなケガだったので死期が早まっただけであり殺人に問議する見解もあるが、そうすると、第二行為の前に救命された後、第二行為が起きて死亡した場合はもはや第一行為者に殺人罪は問えないと思うが、救命とは一体何ぞやという話になる(そもそもまだ生きているのだから)。
つまり、因果関係がなければ罪に問えないというのはその行為から結果が発生しない場合は罪に問えないとする言葉の言い換えに過ぎない。
結果が発生しなければ勿論罪に問えないので、逆に言えばその行為から結果が発生する場合に罪が問えるわけであり、その行為から結果が発生するかどうかが吟味されなければならない。この時行為者の認識事情とかは関係ない(当該構成要件の故意があるかないか)。この行為から結果が発生するかどうかは結局客観的に決まるはずである。
行為後に第三者が介在すればそれはもはや行為から直接結果が発生しなかったのであるから未遂である。この時に第一行為者が通常第三者の行為を予見できないから因果関係はない、とする必要はまったくない。
ビンタをして死亡した場合に、既往症があってそれで死亡した場合はどうか。このとき、相当因果関係説から結論が異なってくる可能性があるが、ビンタするという行為は社会通念上殺害行為ではないだろう。仮にビンタが殺害行為に該当するというならば学校で教師が体罰としてビンタした場合殺人未遂に問われてしまう可能性がある。
そうするとビンタは殺害行為ではないため殺害の故意があっても結局傷害致死にとどまる。わざわざ因果関係論を持ち出す必要はない。
仮に、行為者が既往症を知っており、ビンタで死ぬことが分かっていた場合もこの説からはビンタが殺害行為にあたらないため殺人未遂になりかねないという批判がありうる。この場合に行為者を殺人罪に問えないか?そうすると結局相当因果関係説と同じような議論をこの行為説とも言うべきものに導入することになる。
因果関係の部分で判断するのか行為の部分で判断するのかの違いだけのように思えるが、因果関係論はその原因行為から結果が発生するかしないかであるが、行為説は結果が発生するかしないかではなく、その行為が結果を発生させることを前提としている。結果を発生させない行為は最初から除外され、特殊な事案の場合に相当説のような考え方がでてくる。
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