東京を首都にしたのは本当に前島密なのか?

そもそも当時首都という概念があったのか?
天皇がいる場所が都=政治の中心地だとすると天皇が移動するだけで都が移動できてしまうが?
首都という意味と首都機能=政治の中心地という意味合い
などの疑問が湧きちょっと調べていました。

首都機能移転問題と「東京遷都」
・昭和 16年に文部省がつくった「維新史」という現代にも十分使える高い水準の本がありますが、そこでは「東京奠都(てんと)」という言葉が使われていて、「遷都」とはいっておりません
・現在の高校の教科書では「1869年(明治2年)には、古い伝統のまつわる京都から東京に首都を移した」という表現がされています
・首都という言葉はかなり新しい言葉であり、新しい概念
・一方、政府首脳部は「遷都」という言葉を使っています。政府首脳部は自分たちは遷都をしたという意識を持っていたのです。にもかかわらず、正式な声明を出さなかった
・大久保利通の大坂遷都論 
 大坂にした方がいいという理由は地形が適当であると述べるにとどまっており、分量的にも全体の中のわずかで、取って付けたような印象
 大変革をするには遷都をしなければならない、京都では改革はできないというせっぱ詰まった考えがあった
・前島密の江戸へ遷都論
 首都はどういうものであるべきか、都市景観の問題や将来の交通の問題、日本全体の中での位置関係、運輸・港湾の便なども考慮した非常にまとまったもの
・江藤新平の東京遷都論
 「江戸城は急速に東京と被定」江戸城を中心とした江戸という空間を「東の京と定める」ということで、改めるのではない
 「東西両京」という表現に見られるように、西と東の都の両都論
 下に見ている江戸を東の京に格上げするということ

幕末の大坂への遷都論は大坂城を使用することが前提としてあったわけですが、大坂城が鳥羽伏見の戦いの後に焼けてしまったために大坂城が使えなくなってしまったのです。しかも江戸開城がなされたわけですから、江戸がクローズアップされたのも当然といえば当然

大久保利通の建言の中に「東京の説を以て、(徳川家を)駿府に移封」
江戸城を明け渡しさせて完全に政府のものにし、江戸を東の京にして徳川家をよそに移すということが政府の有力な考え
この段階で天皇親政の布告が出され、これからは政務を行う場所に毎日出てこられ、実際に政治を行う(「万機親裁」)ということが宣言

天皇が自ら政治を行うということは、すなわち天皇が動いたところが政治を行う場所になるわけです。ですからこの場合、遷都問題は天皇問題になるのです。単に都を移すのではなく、天皇が住む場所、天皇が政治をする場所をどこにするかが遷都問題の一番重要な問題になるのです

前島密がなぜ大阪ではなく江戸を首都にしたのかを語る時、よく引き合いにだされるのは
大阪は都をうつさなくても廃れないがで江戸は廃れてしまうから、みたいなことが言われますがそんな単純なことであろうはずもないですよね。
今風に言えばこういうものはまさにオールドメディアが一部分だけを切り取ったものが独り歩きしているような感じでしょう。
歴史を語る時は本当にこういうのが多い事を最近痛感しています。

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