暇だったので実話をもとにした犯罪映画でも見ようと(趣味わるw)検索していたら
が目に留まる。あの神戸のサカキバラ事件がどうのこうので、加害者が弁護士になっているとかなんとかで初めて聞く話。
確かそんなドラマ見た記憶があるが、
で色々検索するとこの本はサカキバラ事件のことではなく
高校生首切り殺人事件
の事であり、実際に当該加害者は弁護士になっていたという嘘のような本当の話だった。。
弁護士 石川一郎
更生については議論の余地があるけど少なくとも反省はまったくしていないようで、これはこれで確かにドラマの素材に使われるのも分かる。
本が出版されてからは所在不明のようだけど現在存命であれば老人になっているが果たして。
ブログに経歴が記されていたので引用させて頂きます。勿論真偽は私には分かりませんが。
削除済み
※追記
当ブログでもっとも検索ヒット数が多いのがこの記事になっていました。とは言え月に数アクセスですが(笑)
引用している経歴の元ブログが既に削除されているようなので引用している部分も削除しようかと思いましたが、弁護士情報などは公開されている公知の事実だと思われますし、ご本人や関係者の方から削除依頼がきたら削除したいと思っていましたが、いずれにせよアクセスが少ないんで相手にされてもいないというか存在すら知られてないだけだと思います。逆に言えばだからこそ放置していても大丈夫ということかもしれません。。。
しかし、改めてこの事件を題材にした心にナイフをしのばせてはどういう本だったかを確認しようとレビューを読んでいたら以下のレビューが目に留まり、当該部分は削除しました。
「かつての殺人を犯した少年が成人して弁護士となっていた」
という衝撃の事実を発掘したことが全てという感じの本で,
内容自体はあまり濃いものではない。また本書の読了感も正直良くない。
この元少年Aは,本書出版後の後追い報道やネットでの実名流布で
弁護士を廃業したそうである。
それは,このAの被害者家族への対応に問題があったためであり,
致し方がないことだった,とすべきなのか。
それともそのような「私的制裁」こそが非難されるべきなのか・・・。またこの事件は,少年法や心神喪失者への可罰問題,
さらにいじめ問題も絡んでいる。少年の犯罪に対して我々は如何に対応すべきなのか。
刑罰を下すべきなのか,あるいは教育であるべきなのか。
少年法とは何なのか,
どうあるべきなのか・・・。さらにAは犯行当時,
どうも精神疾患ないしそれに準ずる状態であったようだ。
つまりここでは刑罰なのか,あるいは治療なのかという問題が出てくる。
どちらが良いのか。
専門家はどう述べているのか・・・。そして最後にいじめ問題である。
これは殺害直前にAは,
被害者Xさんから「お前の顔は豚に似ているな」と発言されたという
(ただしXさんが亡くなっているので当然裏は取れない)。
しかし本書は,なぜかいじめはなかったとし,
繰り返し被害者家族からXさんがいかに明るい良い子であったのかが
語られるのみである
(ただし同級生から,「からいかい」があったという証言の記述はある)。
ではその発言はなくAのウソだったのか。
あるいは,Xさんが明るい良い子だというのが一面的な記述なのか。
いじめはあったのか,なかったのか・・・。本書と多くの読者の興味はどうも,
「加害者は反省しているのか(あるいは反省・謝罪すべきである)」
という点にあるようだが,
本書によれば賠償交渉の電話でAは暴言を吐いたとされ,
また本書(ハードカバー)の出版後,謝罪の手紙を被害者側に送ってきたという。
反省しているのか,していないのか・・・。そもそも贖罪とは何なのか。
更生とは何なのか・・・。何もかもが分からず,
そして未解決の難問(すなわち「・・・」)だけが読者に託されて残った
そんな印象である。被害者家族の痛みに,
著者が心を寄り添わせた点については立派だとは思う。しかし厳しいことを言えば,
著者は被害者の支援団体の人ではあるまい。
よもや正義の味方でもあるまい。
あるいは逆に単なる覗き見趣味の人でもあるまい。筆者はジャーナリストなのである。
Aに対する取材が諸事情で十分に取れないとするならば,
上記の諸問題について何らかの突っ込んだ記述を行うことで,
記述の中立性・客観性を回復するという方法もあったのではないか。少なくとも本事件に対する各分野の専門家の考えを
インタビューすることは難しくなかったはず。その点について非常に残念に感じた。
確かに物事は一面だけから捉えてしまうと本質を見誤る事がある。
特に昨今言われているメディア、或いはSNSなど、その情報を発信する者のバイアスがかかっている場合が多い。というより、ある視点、ある意見、テーマ、そういったものがなければそもそもニュースにすら取り上げないはずだ。
それらを踏まえて情報を受け取る側がどう感じ判断するのか。
その点、このレビューでも同じことが言える。
お前の顔は豚に似ているなと言われたとして、それが1回だけなのか100回なのか。
仮に本当に言ったとしてそれはいじめなのか。
「Aに対する取材が諸事情で十分に取れないとするならば,
上記の諸問題について何らかの突っ込んだ記述を行うことで,
記述の中立性・客観性を回復するという方法もあったのではないか」
つまり、記述が中立ではなく客観性に乏しいという事を言っているのだが、明るくていい子だったかどうか分からないじゃないか、ということになる。
しかし、更に突っ込んで考えると明るくていい子かどうかはどうでもいい話で、レビューにもあるが人々の関心は加害者がまったく反省してないのではないかという点だろう。被害者側に何らかの落ち度があれば加害者は反省しなくていいものでもないはずだ。
とは言え、部外者にはうかがい知れないものもあるはずで、ある特定の解釈をした情報だけを鵜呑みにするのはやはり危険だろう。
ちなみにこの件のウィキペディアには『心にナイフをしのばせて』への批判として「少年に対するいじめが存在しなかったかのように記述する」という表現が使われており、要するにいじめが存在したことが前提となっているが、そもそもそのいじめもあったのかなかったのか?果たしていじめとはなんぞや、いじめられた事への仕返しとして首を切ってもいいのかとか、被害者側がいじめていたら反省しなくてもいいのかとか考えだすとキリがなくなるのでここらへんで終わりにしよう。
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