龍造寺隆信が討ち取られる時本当にみんな逃げたのか?オールドメディアに騙されない

戦国大名で戦場で首をとられたのは2人しかいないらしいが、その一人龍造寺隆信。
肥前の熊の異名をとるが実はこれも当時言われていたわけではないらしいが、当然オールドメディアではそんな事実を言うよりも肥前の熊のほうがキャッチーなのであたかも言われていたように扱う。
さて、この人すこぶる評判が悪いが、実際のところどうだったのかと調べていた。太り過ぎて馬に乗れず神輿で戦場に行っていたのは事実のようだが、最後首をとられるときに神輿をかついでいたやつらが全員逃げ出した、みたいに言われている。
評判の悪い男だからさもありなん、というところだろう。しかし、ちょっと違和感。大将は恐らく本陣にいたはずで、そのときに神輿に乗る必要はないはずだ。

殿の首を受け取り拒否!? 戦国武将・龍造寺隆信の壮絶な最期…からの数奇な運命

そばで仕えていたのは、まだ若き小姓の16歳の新九郎。意外にも、隆信は自分の元から離れて早く落ち延びよと小姓に命じている。

「新九郎打笑ひ、……兼ねての御恩報には、せめて御目の前にて討死仕るを御覧候へと申捨て、群りたる敵中に主従六人駆入りて、十四五人切伏せ、其身もそこにて討たれにけり。生年十六才なり」
(肥前史談会編「肥前叢書 第2輯」より一部抜粋)
選択したのは、隆信の目の前での討ち死に。
近習らが討ち取られていくなか、隆信は、もはやここまでと覚悟を決める。

勿論どこまで本当なのか分からない。この場面を見聞きして伝えるには生きて戦場から帰らなければならない。

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