不作為の殺人罪と遺棄罪 昭和48年司法試験論文の解答例をみて

2020年のスタンダード100刑法の答案構成だけざっくりやっていた。
作為義務について何度やっても理解していないことに気づく。と同時に解答例をみて、少々腑に落ちない点があったのでまとめておこう。

作為義務があるかないかの2者択一の話ではなく、作為義務があったとして、その上で殺人罪を認定するにはどのような要件が必要か否か、という話である

引受行為がある場合とない場合は何が違って罪責が違うのか

車の事故における被害者の引き受け行為があった有名な判例はある意味分かりやすいので逆に本当の論点がぼやけていると個人的には思う。
この判例の事案を題材にしたと思われる本問は引き受け行為がない。
このような場合に不作為による殺人が認定できるか?という問題である。

引受行為がなくても作為義務は成立する場合はある

解答例をみるとまず、そもそも事故を起こしてけがをさせても引き受け行為がないから作為義務がないと論じているが?だろう。恐らく不作為による殺人を成立させないために作為義務がないとしたのだろうが、道交法では救護義務が課されているので(もっとも問題には道交法違反の点は除くとある)、法令によって救助するという作為義務はある。道交法を考えないとしても自分の起こした先行行為がもとになっているのに何もしなくていいわけがない。
知らない人が知らない人にひき逃げされた人を見ている第三者とは異なる。

引受行為があるとなぜ殺人の不作為犯に問われるのか

引受行為というのは排他的支配領域性があり、要するにそのまま放置していたら第三者に助けられる可能性もあるのに、一旦引き受けることによってその可能性を排除してしまい、そのような行為は殺人の実行行為と同視できるような行為と言える(集中講義 刑法総論 44頁)。従って引き受け行為があってはじめて殺人となる。
引き受け行為があったから作為義務が発生したわけではない(発生する事もあるだろうがこの場合はそうではない)。このロジックだと作為義務があればそれに違反するだけでも不作為によって作為犯が成立してしまう(そういうことを言っているのかもしれないが少なくとも判例はそうは言っていないはずだ)。

不作為と作為の同価値性

つまり作為義務というより、その不作為が作為と同視できるような行為であるかどうかがキモである。
救助しなければならない人間が救助をしなかったという不作為は同じであっても全体として見た場合は個別具体的な状況は違う場合もある。

作為義務で絞りをかけるか実行行為性で絞りをかけるか

この点、だからこそ法令などから一律に作為義務を認めてしまうことについて批判的な意見があるが、この説からは作為義務によって不作為犯を限定しようとするものと言えるだろう。
しかし、作為義務を判断する場合も同じように個別具体的に判断することになり、作為義務を負わせていいかどうかを作為犯の罪責を帰責させていいかどうかで判断しているに過ぎない。

不作為犯は作為犯を不作為の形で実行するものであるから、不作為行為(何もしないというだけではない)が作為と同視できるような行為か否かで判断されるべきだろう。

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