短答対策

とりあえず最近の気づきをまとめる

短答と論文

論文の答案構成は短答対策にもつながる。いや、むしろ短答が苦手な人間ほど論文答案構成はやるべきだ。

独学と予備校

積極的に各予備校の講座は利用すべき。独学は独善的になりやすく、疑問点解消に時間がかかり非効率的。

基本書とネット

基本書に頼らない。基本書には学問的に重要だったり、学者の考え方での解釈が多分にあり、初学者の頃はそういうものが良く分からないので全てを飲みこもうとして消化不全に陥る可能性がある。基本書は参考書にして、予備校本などで基礎を学習し、分からない点は積極的にネットを活用する。そのほうがピンポイントで分かりやすい。

六法

条文はe-Govで。中高年は老眼がすすんでいる人も多い。コンパクト六法を使っていると非効率的。e-GovでRTFで条文をダウンロードし、適宜自分にあったサイズで印刷して使う方がいい。いずれにしろコンパクト六法などはつかいづらい。関連条文なども自分で書き込んだほうが記憶の定着にもいい。条文をA4で印刷したほうが余白をとりやすい。かつ、各科目で分けることができ持ち運びしやすい。

短答と論理学

短答の成績が伸びないのは知識ばかりに頼っているからである。
短答の問題に出てくる肢をみると、必ず見たことも聞いたこともないような肢がいくつか必ずある。それを知識で解こうとしても無駄である。
また、言い回しや文言が曖昧だったり、逆に言いきっていたりして、非常に紛らわしい肢も多い。
このような問題を司法試験委員会はなぜ出しているのかと言えば、予備試験に限って言えばそれは落とすための試験だからに他ならない。
知識問題だけでは差がつきにくいためだと思われるが、このような問題は現場思考で対応しなければいけない。
となると推論していく他ない。
この時、論理学が役に立つ。否、短答が苦手な人間は一度論理学の初歩でいいから勉強する必要がある。
いかに独善的に肢を考えていたのかが分かるはず。

条文分解

条文は素読しろと言われるが、単に素読して対応できるものとそうでないものがある。
条文自体が準用が多くて込み入っているものもあり、そんなものを素読してもそもそも理解していなければ時間の無駄である。
一読して分かるような単純な構造の条文はいいが、分かりにくいものは一体何がどうなっているのか、何を言いたいのか、などじっくりと吟味する必要がある。
この時、後で見返したら一発で分かるように条文を分かりやすく、自分なりに作り替える。法律の条文はもはや日本語とは違うものと割り切って、自分なりに翻訳する。
この点、基本書などを通読するだけだと分かったつもりになっているだけで実際の事例問題などに対応できない場合が多い。
従って、条文だけを見てきちんと頭の中でイメージできるようにならなければいけない。
条文を再構築する際も論理的な考え方が非常に役立つ。

判例と論理

判例の理解にも論理学的視点は役に立つ。法的思考と言う言い方もあるようだが、要するに論理学のものの考え方とも言える。
三段論法をある程度勉強してから判例などの要旨をみると違った世界が見えてくる。
そうすると、短答の判例問題も勿論違った景色が見えてくる。
短答を法的思考の試験でもあると考えると知識で解ける問題は半分、後の半分は現場思考で解けるという意見もあながち間違っていないと言える。
しかし、この法的三段論法には実は問題がある。

法的三段論法の限界

法的思考と論理
論理的に考えるとこうなるとか、法的思考だとか、論理的という言葉に対して法律を勉強していると違和感を感じる人も多い。
論理的に考えるとそうなるのか?判例の考え方はおかしくないか?などという素朴な疑問である。
とは言え、法律はおろか論理学などまともに勉強したことがない人間が論理的におかしいじゃないか、などと法律専門家の論理を批判するのも変な話なので、単に自分の頭が悪いだけだと思っていたのだが、実はそれだけではなかったようだ(頭が悪いという事実には間違いはないようだ(笑))。

条文を三段論法的に理解して事例を当てはめて結論を出そうとすると、意外に一筋縄ではいかない条文が多い。特に民法はその傾向が強い。
条文が単に原則だけを規定している場合はいいが、条件付きだったり、例外があったり、要件の一部分を他の条文の準用にしていたりすると、結局要件の中にさらに要件があったりして定言三段論法では限界があると言うことが分かる。
否、これも自分の勉強不足なだけだと思っていたわけだが、やはり法的な三段論法にはいろいろと問題があり、様々議論がなされていることが分かった。
にもかかわらず、法的三段論法とか法的思考などと銘打って、書籍や講座などが展開されているのはいかがなものだろうか。
短答対策という意味でも論理的な問題と言うなら、論理的に解ける、という事なのだろうが、実は論理的な問題に見えて知識で解ける場合もあるし、知識問題に見えて、知識だけでは解けない問題も多い。
そもそも論理的に解けるという意味はどういった意味なのか?論理的に解けると言うのは知識がなくても解けるのか、知識を前提としたうえで論理的に解くのか?ある一定のルールを前提とした論理というものなのか?

論理以前

個人的に短答の問題を解く際に問題文を都合よく解釈しているところが多分にあり(読み間違いとは違うように思う)、その解消の一つとして文章を論理的に読んで当てはめていければより正解に近づくのではないかと考えた。
これは三段論法以前の話で、厳密には論理学とは関係ないのかもしれないが、意外に重要で、短答式で躓いている人は結構このあたりだったりするのかもしれない。
例えて言えば、運転免許の学科試験のようなもので、独特の言い回しに混乱してしまうと言った感じだろうか。
~ではないとは言えない、などという尾ひれがつくと途端に正しいか間違いかが明確に、そして即断できなくなる。もはやこれは知識の話ではない。
そして、司法試験的に言えばこのような言い回しの問題であれば知識問題に分類されるはずだ。単純な条文知識であってもこのような言い回しにするだけで恐らく正答率は下がるはずだ。間違えれば結果的には知識がないとか、正確に理解していないと片付けられてしまいがちだ。
すると、短答に落ち続ける人間はより細かい知識を覚えようということになる。
しかし、本質はそこにはなかった、となるとこれほど悲しい事はない。
法律は論理的か?法的三段論法とは何か?

司法試験に向き不向きはあるのか

今年、令和3年の行政法第15問の肢イを見てみよう。

イ.聴聞の期日における審理については,聴聞の主宰者は,非公開で行うことができ,行政庁が
公開することを相当と認めるときを除き,公開する必要はない。

正答は×。勿論私は〇にした(笑)
確か聴聞は公開しなくてよかったよな、という事で瞬殺で〇にし、返り討ちにあった。
当該条文を確認してみよう。

(聴聞の期日における審理の方式)
第二十条 主宰者は、最初の聴聞の期日の冒頭において、行政庁の職員に、予定される不利益処分の内容及び根拠となる法令の条項並びにその原因となる事実を聴聞の期日に出頭した者に対し説明させなければならない。
2 当事者又は参加人は、聴聞の期日に出頭して、意見を述べ、及び証拠書類等を提出し、並びに主宰者の許可を得て行政庁の職員に対し質問を発することができる。
3 前項の場合において、当事者又は参加人は、主宰者の許可を得て、補佐人とともに出頭することができる。
4 主宰者は、聴聞の期日において必要があると認めるときは、当事者若しくは参加人に対し質問を発し、意見の陳述若しくは証拠書類等の提出を促し、又は行政庁の職員に対し説明を求めることができる。
5 主宰者は、当事者又は参加人の一部が出頭しないときであっても、聴聞の期日における審理を行うことができる。
6 聴聞の期日における審理は、行政庁が公開することを相当と認めるときを除き、公開しない。

恐らくだが(もはや全て自信がない(笑))、6項の事を言っているのだろう。結論だけ見ると公開しないということで〇っぽそうだが、恐らく、原則公開しないということであって、肢は非公開で行うことができるという裁量があるようになっている点が間違いだということになるのだろう。
さて、ここで疑問なのは非公開でできるという事と、公開しないということが相反する概念なのかという点である。確かに公開しない=非公開とだけ定められていれば非公開でできる→公開できる場合もある、というのは間違いになるが、条文では公開できる場合が規定されている。
肢を素直に読むと公開しないのが原則だから、という事で×にするのが正しそうに見えるものの、深く考えると間違ってしまう事もあり得る。
この点、このような短答の肢に惑わされるのは、要するにこの試験に向いていないということなのかもしれない。
そこで終わってしまっては何事も進歩がない。
ということで、条文を再度検討してみる。条文を大前提として肢を小前提とするような三段論法で果たして当該問題は正答が導き出せるのか?
正直分からない(笑)。いずれにしても正答は×なので×の理由と肢のどの部分が×なのか、或いは肢がなぜ×という帰結に至るのかを改めて考えてみたい。
前述の如く肢は要するに非公開にするかしないかの裁量があると言っていて、条文はある条件以外(相当と認める時)は非公開という事を言っている。
ある条件(要件と言ってもいい)に合致する場合のみ非公開にできるということと、完全に裁量に任される場合は明らかに違うことであると言える。
しかし、肢には条件も付されている。この点、この条件だけをみると、この条件に合致すると公開しなければならないと読める。
条文では条件そのものが裁量(条件に合致すれば必ず公開しなければならないとは言っていない)と読める。とは言え、いずれにしても相当と認める時とは要するに公開してもいい時であり、公開してもいいが公開しない裁量というものがあるとするなら、それは結局公開するのを相当とは認めないということになるので、結果条件はやはり裁量ということだろう。
となると、条文ではまず公開しないと言い、公開するのを相当と認めたら=裁量で公開できる場合があるとも読める。
肢はどうか?肢はまず裁量で非公開にできると言い、公開するのを相当と認めたら=裁量→それ以外は非公開と読める。
つまり、この条文と肢の読解としては論理学でいうところのオイラーの図や三段論法で判断できない。
この問題で何が聞きたいのかと言うと結局のところ条文では、「原則公開で非公開にできる場合がある」or「原則非公開で公開できる場合があるのか」どちらを規定しているのか?ということなのだろう。
より重要なのはそういった事が問題及び肢を見てきちんと判断できるかどうかということであり、それがこの話の基本的な目標になる。
言い回しや言葉の入れ替えなどに惑わされずに正答を導く方法として論理学的な手法が使えるか使えないか、あるいは使うためにどうしたらいいのか、という事である。

もっとも、この前提としては正確な知識がなければ話にならないわけで、今回の肢で言えば正確な条文知識である。そこで「確か聴聞は公開しなくてよかったよな」だが、これくらいの知識だと結局使い物にならないことが分かった(笑)
仮に原則非公開で、行政庁が相当と認めるときは公開できると覚えていたとしても結局間違っていた可能性が高い。
いくら知識があっても言い回しなどで簡単に間違えてしまう。これが問題なのだ。これではいくら勉強しても一生合格しない。
とは言え、論理で正答が導けるかと言うとそうでもないことが分かった。従って、まずは知識として覚える質、内容を高めていくしかない。
本肢のような言い回しや、問い方を変えて惑わす問題に対処するためには結局条文の論理構造をきちんと把握しておかなければならないということであり、字面だけを覚えても対処できないということである。
原則非公開ってそもそもどういう意味なのか?例外はあるのか?或いは原則と言っても条件付きの原則もある。また、条文には直接書かれていない判例で確立したような事もあれば、通説として隠された要件や条件がある場合もある。
条文の素読が大事などと言われるが、素読ではまったく意味がない条文も多いし、逆に条文だけ知っていればいい場合もある。

ということで、このように考えていくと、結局司法試験の勉強って要するにこういう事であって、勉強の仕方が間違っていたということに行きつく。
それは分かり切った話なので、この条文について改めてみてみよう。

「行政庁が公開することを相当と認めるときを除き、公開しない」
「~除き、」という部分は条件と言うよりも例外になるだろう。
「聴聞の審理は公開しない」というのが本筋、原則、命題である。そして、
「~を相当と認める時は公開する」というのも一種の命題と言えるだろう。
条文を分解して作り直すとざっくりこんな感じに落ち着く。
つまり「聴聞は公開しない」「行政庁が相当と認める時は公開する」
さて、これで今年の肢イは解けるのか再度見てみよう。

イ.聴聞の期日における審理については,聴聞の主宰者は,非公開で行うことができ,行政庁が
公開することを相当と認めるときを除き,公開する必要はない。

肢を分解再構築してみよう。
「非公開で行うことができる」
「~と認める時は公開する」
ざっくりこんな感じになるが、この文章単体だとおかしくないが一つの流れでみるとしっくりこない。
非公開で行う事ができるとあるものの、どういう時に非公開で行えるのかの規定はない。勿論、非公開で行うかどうかは裁量であるとも考えられる。
また一方で公開する場合は「~と認める時」と規定されている。
という事は結局非公開で行うというのが裁量に任されているということになり、条文ではそこまで規定されていないのでやはり誤りとなる。

と、ここまで行きつくのに何時間かかったろうか。
やはり、向いてないのだろう。。。(笑)

条文や肢を換言しよう

論理学では一般の文章を論理学的に使えるように換言する作業が行われることがある。
前述のようにそもそも法的三段論法が適用できない場合も多々あるし、限界があることは分かっている。
そこで、条文や問題を読んでよく分からない(この場合は意味がよく分からない)ときは分解したり、分かりやすく言い直したりして簡潔に分かりやすい表現にすると正答へ少しは近づくことが分かった。
勿論全ての問題に対応できるわけではない。
また、正確な知識が前提だが、正確な知識を取り入れる際も特に条文の場合はこれはかなり有用だと思われる。

※追記 20240427
論理命題として考えると命題がつくりにくい。肢の後半部分「公開することを相当と認めるときを除き,公開する必要はない」はそっくりそのまま条文なので、結局前半部分が問題となる。
「非公開で行う事ができる」が間違いというならば非公開で行う事はできないが正解となる。これを条文でみると
「6 聴聞の期日における審理は、行政庁が公開することを相当と認めるときを除き、公開しない。」とある。除き部分を除くと審理は公開しないとなり、公開する場合は公開することを相当と認めるときに限定されている。
ここで、~しないとは法律的にはどのような意味を持つのか?
逆の意味の~するを考えてみると、文字通り「する」のだろう。
しかし、憲法第7条の天皇の権能には 六 大赦、特赦、減刑、刑の執行の免除及び復権を認証すること ととあるが、この場合の「する」はできるという意味にも捉えられる。あるいは出来る事と言ってもいいのかもしれない。
英語で考えるとcanになるが、日本語の表現ではdo的なニュアンスになっている。翻って「公開しない」を考えると公開できるのだがしないとも言えそうである。より掘り下げて言えば、公開を相当と認めるときは公開できるが、それ以外は公開しないのであって、公開できる場合があることに間違いはない。つまり、公開することができる権限はあると言える。
肢を改めて読む
非公開で行うことができ,
行政庁が公開することを相当と認めるときを除き,公開する必要はない
非公開で行うことができとあるが、非公開で行う事ができる権限については実は条文には何も記載がない・・・(笑)
「6 聴聞の期日における審理は、行政庁が公開することを相当と認めるときを除き、公開しない。」を論理命題に変換すると

公開相当ではない → 公開しない
公開する → 公開相当である

と考えられ、この条文はむしろ公開する場合について強制しているとも捉えられる。そうすると非公開にできるかどうかではなく、公開するかしないかについて規定されているのであり、そこに裁量はないとも言える(公開相当性の判断に裁量が働くとも言えるが)。

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