横山秀夫氏の小説「半落ち」が直木賞に落選した理由は致命的な事実誤認があったからという。
その経緯についてはこの記事に詳しい。直木賞のすべて
要するに
受刑者はドナーになれないという選考委員の指摘
横山秀夫氏が再度確認すると事実誤認ではないと確信を得た
という事で、このような経緯から選考委員特に林真理子氏を非難するような意見が多い。
私が疑問というか腑に落ちなかったのは
①本当に受刑者はドナーになれないのか?という点と、
②仮にそうであったとしてもフィクションなんだから、設定なんだから目くじらをたてるな、
という意見が意外に多いということ。
実はこの②の意見が多いという点が問題で、これが読者側目線ならまだしも製作者側から語られるのが日本のエンタメの致命的な問題だと思う。
仮に設定であったとしても、設定なら設定としてその設定をきちんと描く必要がある。そうでないとこういう突っ込みをいれられまくるからだ。
また、このような設定なんだからいいじゃない、という人に多いのは実際のところはどうか?といった点についてはどうでもよく自分で調べることなどしない点である。
そうすると結局設定なのか事実なのかはどうでもいいわけで、もはやなんでもアリの作品となってしまう。日本の映画やドラマにはこういったご都合主義的なものが多い。
そこで①の点から改めて調べてみるとドナーになれないといった法律自体はどうやっても見つけられなかった。最近はやりのAIでは受刑者はドナーなれないと回答するのだが(笑)
『半落ち』の結末部分における疑問点
色々と検索をしてみると、上のリンクにヒントがあった。
刑事訴訟法及びこれまでの事例から考えると受刑者が骨髄を提供するのはかなり難しいといえるだけであり、絶対的に不可能だとは言えないと結論付けられる。
刑務所の外にでる為には許可が必要であり、ドナー登録の為の許可申請が許可されなかったためこの事が独り歩きして不可能だと言われているようである。
しかし、
ドナーに登録する場合と
ドナー登録後に実際に骨髄を提供する場合とではかなり状況が違うだろう。
確かに、ドナーに登録したいと刑務所の受刑者が多数言い出し始めるた場合を考えるとイチイチ許可していたら対応に苦慮するのは想像に難くない。
とは言え、既にドナー登録を済ませた段階で刑務所に収監されている場合は別だろう。骨髄が適合している場合は国としてもそれ相応の便宜を図るのもやぶさかではないはずだ。
そのように考えると半落ちの主人公が既にドナー登録していれば「設定」も設定ではなく事実たりえる。
そういう意味でも上記リンク先で言及されているように、それなりの説明が補足されるべきだった。また、日本のエンタメはこういった設定を端折って登場人物に説明させたりする。設定はまだしも、感情や今までのいきさつや状況までも登場人物が口で説明するという人間の行動原理にはないような事をさせてしまったりするのも問題だ。
このあたりの詰めの甘さを設定だからいいじゃんと許してしまうのは一番の問題で、日本人は全般的にその傾向が強いと思う。そういう受け手ばかりだから作り手はその状況に甘んじて、エンタメ作品こそ一歩外に出ると通用しないのだろうと思う。